第3章-7 闇の呪印

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第3章-7 闇の呪印

凍てつく風が、頬を切り裂くように吹き抜ける。 若(わか)の足跡を追い、紅姫が辿り着いたのは雪山の麓だった。だが、彼女の鋭い瞳が見据える先にあるのは、白銀の静寂ではない。山肌を這うように蠢く、どす黒い邪悪なオーラだった。

「……嫌な気配じゃ」

警戒を強める紅姫の視界に、ふらりと小さな影が現れる。 それは一人の妖狐の少女だった。かつての愛らしい面影は失せ、瞳からは生気が消え失せている。泥と雪にまみれ、とぼとぼと歩み寄る姿は、見るも無惨な操り人形のようだった。

「紅、、姫様……早く、、逃げ、、て……」

掠れた声が風に消え入りそうになった瞬間、紅姫の朱色の瞳がすっと細められる。

「まったく、厄介な奴がおったもんじゃ」

その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、少女の全身がどす黒い狂気に包まれた。

獣のような咆哮と共に、少女が紅姫へと襲いかかる。鋭い爪が紅姫の喉元を狙うが、紅姫はそれを紙一重でかわすと、強引に少女の懐へと飛び込んだ。

衝撃――ではなく、温もりが少女を包み込む。 紅姫は、狂乱する妖狐を真正面から強く抱きしめていた。

「よしよし、もうよい」

紅姫の慈愛に触れ、少女を覆っていた邪気が霧散していく。糸が切れたように崩れ落ちる小さな体を、紅姫は優しく受け止め、近くの大木の陰へとそっと横たえた。

振り返る紅姫の瞳には、氷のごとき怒りが宿っていた。

「か弱き妖狐を武器にするとは……なぜ貴様がおるのじゃ、道満!!」

紅姫の叫びに応えるように、空間が悲鳴を上げた。 何もない空中にどす黒い裂け目が走り、その闇の奥から、歪んだ笑みを浮かべた男――芦屋道満が姿を現す。

「それはワシのセリフぞ。あの男を追ってきたはずが、まさかお前のような式神の小娘に出くわすとはな」

周囲の木々がざわめき、雪が黒く染まり始める。道満は紅姫を見下ろし、愉悦に歪んだ笑みを深めた。

「くく……おもしろい。貴様を奈落に沈めよう。さすれば、奴は激怒するだろう」 「そしてワシに憎しみを叩きつける!! 憎い、憎い、憎い、憎い……だが、奴もまた闇に沈める。ああ、なんて良い計画だ」

恍惚とした表情に歪む道満の周囲に、次々と空間の裂け目が生じ、異界の瘴気が噴き出す。 紅姫は呆れたように一つため息をついた。

「道満、1000年もじゃれ合うとここまで歪むか……はぁ」 「ただ、今はお前と若を戦わせる訳にはいかん」

紅姫が鋭く睨みつけると、道満は両手を広げ、その殺気すら楽しむように嗤った。

「ワシに殺気を向けるとは。その目が闇に堕ちる様……それも一興!」

道満の号令と共に、裂け目から異形の妖怪たちが雪崩のように飛び出した。

紅姫が構えようとしたその時、傷ついたはずの妖狐の少女がふらりと立ち上がり、紅姫の前に立ちはだかった。「だめじゃ!! そなたの力では……!」

「この山で……誰も傷つけさせ、、ない!」少女は決死の覚悟で結界を張るが、凶悪な妖怪の一撃はその華奢な体を容赦なく吹き飛ばした。 鮮血が雪に散る。

紅姫が駆け寄り、少女を抱き起こす。その掌から溢れ出る金色の光が、少女の傷を瞬く間に癒やしていく。

だが、それだけでは終わらない。紅姫の全身から立ち昇る光は、雪山の暗雲を払うほどに輝きを増し、その姿を変貌させていった。 荘厳なる神気。黄金の輝き。それは、太古の記憶を呼び覚ます太陽の化身。

なめるなよ。――覚醒、天照(アマテラス)

紅姫が解き放った無数の光の矢が、流星群のように妖怪たちを貫いた。 断末魔を上げる暇もなく、神の如き衝撃波が群がる魔物を一瞬で消し飛ばす。圧倒的な浄化の光を前に、道満は口元を歪めた。

「並みの妖魔では相手にならんか」

道満が素早く印を結ぶと、膨れ上がった瘴気が彼自身を包み込み、巨大な夜叉の鎧へと変貌した。天を突くほどの巨体が、雪山を揺るがす。

「だがワシは妖魔を従える陰陽師の頂点!!!」

光の矢と衝撃波を真正面から受け止めながら、巨大夜叉と化した道満が一歩、また一歩と紅姫へ迫る。 振り上げられた剛腕が、紅姫を粉砕せんと振り下ろされた。

その刹那。 夜叉の剛腕に、天から降り注いだような巨大な光の刃が深々と突き刺さった。

「グオォォッ!?」

動きを封じられた道満が驚愕に目を見開く中、紅姫はふっと口元を緩め、視線を虚空へと向けた。

「まったく、どこで油を売っておったのじゃ」

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